トヨタ産業技術記念館で、創業者と二代目の波乱万丈な生涯を学んできたので紹介する

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普段は料理を作り本を読むという、典型的インドアな生活に勤しんでいる筆者が運営する当ブログ。

そんな筆者ですが、先日友人と名古屋に旅行に出た際、トヨタ産業技術記念館を訪れてきたわけです。

友人の一人に誘われて流れで行くことになったものの、正直なところ「一体なにを楽しみに行けばいいんだ……?」と結構後ろ向きでした。

そして前情報なく入館したわけですが、この施設、創業者である豊田佐吉と、その息子・豊田喜一郎の生涯や発明品について学ぶ場所でした。

そして創業者と二代目について学んだわけですが、これがまぁ、めちゃくちゃ面白かったんですよね。

どん底から這い上がる発明王の物語とか、織機の特許を売って自動車事業に転換した息子の大胆な決断とか、聞いてるだけでワクワクするエピソードばかりなわけです。

今回は、そんなトヨタ産業技術記念館で学んだ創業者たちの生涯と、展示されていた革新的な機械たちについて、学んだ内容とその後調べた情報を元に、紹介していきたいと思います。

それでは、いってみましょう!

トヨタ産業技術記念館について

トヨタ産業技術記念館は、名古屋市西区にあるトヨタグループ運営の企業博物館です。

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1911年に豊田佐吉が建設した豊田自働織布工場の赤レンガ造りの建物を、産業遺産として保存・活用している施設なんですね。

展示は大きく「繊維機械館」「自動車館」に分かれていて、それぞれ実際に動く機械の動態展示やスタッフの実演で、技術の変遷をわかりやすく紹介しているわけです。

さて、そんなトヨタ産業技術記念館で特に印象的だったのが、創業者たちの人生の物語でした。

豊田佐吉という発明王

発明への狂おしいほどの情熱

豊田佐吉は、1867年に静岡県湖西市の農家に生まれました。

父は農業の傍ら大工をしていた人物で、佐吉も小学校を卒業する頃から父の大工仕事を手伝うようになったとのこと。

転機が訪れたのは18歳のとき。1885年に国が「専売特許条例」を公布し、発明を奨励・保護する制度が整備されたことで、佐吉は「発明で国のために役立とう」と決心するわけです。

当時、村の青年たちと開いていた夜学会で新聞や雑誌を読みあさり、日本が産業立国を目指していることを知った佐吉は、特に政府が重視していた繊維業に注目しました。

母親が苦労して機織りをする姿を見ていた佐吉は、「これを機械化できれば母を楽にできる」と考え、織機の改良に没頭し始めたわけです。

1890年、23歳のときに最初の発明品「豊田式木製人力織機」を完成させ、特許を取得。これまで両手で織っていたものを片手で織れるように改良したもので、能率が4〜5割向上したとのことです。

しかし、佐吉が目指していたのは人力ではなく、動力で動かす自動織機でした。

どん底からの這い上がり

発明のための資金を確保するため、佐吉は1892年に東京で小さな織布工場を開業するわけです。

ところが、工場経営と発明研究の両立は困難を極め、開業からわずか1年で工場を閉鎖せざるを得なくなりました。

工場を閉じて郷里に帰った佐吉でしたが、ほどなくして豊橋のおじを訪ね、その家に住み込みながら動力織機の研究を続けたとのこと。

まぁ、かなり厳しい状況だったわけですね。

その後、1896年に日本初の動力織機「豊田式木鉄混製動力織機」を発明。これが注目を集め、三井物産が織機製作会社の設立を提案してきました。

1899年に合名会社井桁商会が設立され、佐吉は技師長として動力織機の製作を指導することに。

ところが、ここでまた試練が訪れます。

会社側が織機の量産を主張したのに対し、佐吉は自身の発明品をまだ過渡的な製品とみなし、受注を限定しようとしたわけです。

両者の方針の違いから思いどおりの研究ができなくなった佐吉は、1901年末に技師長を辞任。自身の豊田商会で再び発明に没頭することになりました。

さらに、1906年に三井物産の出資で「豊田式織機株式会社」が設立され、佐吉は常務取締役兼技師長に就任したものの、日露戦争後の反動不況で業績が急落。

1910年、佐吉は責任を押し付けられる形で会社を追われることになったわけです。

43歳にして、また一からのスタート。

想像を絶する、凄まじいどん底の状態

でも、ここからが佐吉のすごいところなんです。

同年、佐吉は右腕の西川秋次を伴って欧米を巡察。自分の開発した織機が性能面で海外製品にも引けを取らないことを確信し、自信を回復して帰国したとのこと。

1911年には名古屋に「豊田自働織布工場」を開業。第一次大戦に伴う物資不足で綿布注文が殺到し、事業は急成長を遂げました。

挫折しても、また立ち上がる。

この不屈の精神が、後の大成功につながっていくわけです。

革新的なG型1号機の誕生

そして1924年、佐吉57歳のとき。

遂に目標としていた「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」が完成しました。

このG型自動織機の何がすごかったかというと、高速運転中に少しもスピードを落とすことなく、円滑に杼(ひ)を交換して緯糸(よこいと)を補給できる完全なる自動織機だったということ。

従来の織機では、横糸がなくなるたびに運転を停止して補充しなければならず、能率が著しく害されていたわけです。

ところがG型は、その問題を完全に解決。

従来の織機の15〜20倍以上という画期的な生産性を実現し、織物品質も大幅に向上させたとのことです。

展示されていたG型1号機を見ましたが、その精巧な作りに驚きました。

当時としては最先端の技術が結集されていて、「これが100年前の機械か。。。」と感動しました。

このG型自動織機は世界的に高い評価を得て、世界の繊維機械業界をリードしていた英国のプラット・ブラザーズ社が特許権譲渡を申し入れてきたほど。

1929年、同社に「日本・中国・米国を除く国々でG型自動織機を製作・販売する権利を与える」という契約を締結しました。

日本人の発明が世界に認められ、外国企業から特許権譲渡を求められたことは、日本の技術史上、特筆される快挙だったわけです。

生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明した佐吉は、1985年に特許庁により日本の十大発明家のひとりに選出されています。

1930年、佐吉は63歳で永眠。

発明主義を貫いた生涯でした。

豊田喜一郎の大転換

織機から自動車へ

豊田喜一郎は、1894年に佐吉の長男として生まれました。

幼少期は静岡県の祖父母のもとで育てられ、3歳のときに名古屋にいた父のもとに引き取られたとのこと。

父の工場で日常的に機械に触れながら成長した喜一郎は、東京帝国大学工学部で機械工学を学び、卒業後は父の豊田紡織に入社。

父・佐吉とともにG型自動織機の開発に携わり、大きな成功を収めたわけです。

さて、ここからが面白い展開になっていきます。

1929年、喜一郎はプラット社との特許譲渡契約調印のためイギリスを訪れました

契約の対象となったのは、総額10万ポンド(約1,000万円)。現在の価値に換算すると数億円規模の取引だったとのことです。

この莫大な資金が、後の自動車事業への転換の原資となるわけですが、それ以上に喜一郎に大きな影響を与えた出来事がありました。

 それが、イギリスで見た光景です。

わずか7年前に訪れたときには、高給を得て自信に満ちていたプラット社の熟練工たちが失業し、町には失業者が溢れかえっていたとのこと。

一流企業だったプラット社の活気も失われていました。

この光景から、喜一郎は危機感を抱いたわけです。

「織機だけに頼っていては、社員を守り、社会に貢献することはできない」

時代が軽工業から重工業に移りつつあり、中でも自動車工業が将来的に経済の中心になることを見抜いた喜一郎は、自動車事業への進出を決意しました。

父・佐吉も、アメリカでT型フォードが道にあふれているのを目の当たりにし、日本でも自動車を作らなければならないと痛感していたといいます。

1927年、喜一郎が豊田紡織の取締役に就任した際、佐吉は自動車の分野への進出を助言したとのこと。

「一人一業」が豊田家の家訓。

子が親を継ぐだけではいけない、別の事業を始めるべきだ、というのが佐吉の考えだったわけです。

「パクる」ことから始めたAA型乗用車

1933年、喜一郎は自動車部門を設立。

自動車開発のスタートにあたって、喜一郎がとった方法は実に大胆でした。

アメリカから最新式の自動車を購入し、それを徹底的に分解研究したわけです。

購入したのはクライスラーの「デソート・エアフロー」

クライスラーとデソートの両ブランドで販売された「エアフロー」。写真はトヨタ博物館が収蔵している“デソート版”である。
引用元:webCG Car Graphic

この車を完全に分解し、各部品を測定・図面化し、試作を重ねました。

エンジンは1933年型シボレーエンジンを参考に開発。

いわば、「パクる」ことから国産自動車づくりは始まったわけです。

まぁ、今の時代では考えられない手法ですが、当時の日本の技術水準では、欧米の先進技術を学ぶことが必要不可欠だったんですね。

そして1936年、トヨタ初の量産乗用車「トヨダAA型乗用車」が完成しました。

展示されているAA型を見ましたが、流線形の美しいボディラインが印象的でした。

クライスラーのデソート・エアフローの影響を強く受けた流麗なスタイリングで、排気量3,400cc、5人乗りのセダン。

クライスラー社が当時エアフローに採用したばかりのアンダーステア形重量配分を応用し、エンジンを前車軸上に配置することで、前後の重量配分を50:50ないしやや前車軸寄りとしました。

これによってボンネットを短縮して車室面積を広げながら、操縦安定性をも高めるという、日本ではこのAA型が最初の採用だったとのことです。

当時の新車販売価格は3,350円。

大卒初任給が約60円だった時代ですから、現在の価値に換算すると約1,100万円。

かなりの高級車ですね。

シボレーのコピーのエンジンを、シボレーとフォードの折衷的シャーシに搭載し、クライスラー風のボディを与えたというその成り立ちは、アメリカ製量産車の体裁を模倣せねばならなかった、当時の技術的限界を如実に現した産物だったわけです。

でも、これがスタート。

ここから日本の自動車産業が発展していくことになります。

戦争という逆境の中で

AA型乗用車が発売された1936年から、日本は戦争の時代へと突入していきます。

1937年にトヨタ自動車工業株式会社が設立されましたが、太平洋戦争の勃発により、民間向けの乗用車生産は事実上停止。

軍用トラックの生産が中心となりました。

戦時中は資材不足や空襲の脅威にさらされながらも、喜一郎は生産を続けたとのこと。

戦後も、GHQによる占領政策や経済的混乱の中で、幾度も危機に直面しました。

1950年には労働争議により、喜一郎は社長を辞任。

その2年後、1952年に57歳で急逝しました。

佐吉も喜一郎も、決して順風満帆な人生ではなかった。

何度も挫折を経験し、どん底を味わい、それでも諦めずに前に進み続けたわけです。

記念館で見た、時代を作った展示品たち

当館には二人の歴史の紹介の他、色んな展示物がありましたので、ざっくり気になったものを紹介していきます。

スチームパンクを思わせるかっこいい機械たち

まず、佐吉時代の織機から。

このフォルムが、スチームパンクを思わせてなんともそそられるものがありました。

ちなみにこちらはモーターとのこと。

お洒落だから撮っただけで、どのようにして動くのか、あるいは佐吉との関連性はよくわかりません。

2000GTという美しい挑戦

館内には、1967年に発売されたトヨタ2000GTも展示されていました。

あまり車には興味がない筆者ですが、子どもの頃に観た、映画のクレヨンしんちゃんの『オトナ帝国の逆襲』に登場していたので覚えていました。

実物を見ると、これがもうめちゃくちゃカッコいい。

トヨタとヤマハ発動機が共同開発したこのスポーツカーは、当時の日本車としては画期的な性能を誇ったとのこと。

最高速度220km/h、0-400m加速15.9秒という、当時の2Lクラスの欧米スポーツカー、特にポルシェ911Sに匹敵する走行性能を示しました。

1967年から1970年までの3年間で、わずか337台しか生産されなかった「幻の名車」。

新車販売価格は238万円で、大卒初任給が約2万円だった当時、現在の価値に換算すると2,000万円以上という超高級車でした。

ジェームズ・ボンド映画『007は二度死ぬ』に登場したことでも有名で、日本の自動車技術が世界レベルに到達したことを示す象徴的な車だったわけです。

細部に至るまで洗練されたデザインが施されていて、「こんな車が50年以上前に日本で作られていたのか」と感動しました。

PC-9800と産業技術の結びつき

ちなみに、館内にはPC-9800も展示されていました。

ゲーム好きの筆者としては、これにも反応してしまいました笑

Windowsが世の中を席巻する前、当時PCの覇権を握っていたPC-98はビジネスや産業の間でも一般的に使用されていたわけですが、それと同時にホビー用としても多く出回り、数多のゲームがこのPCから生まれました。

数多の分野の躍進に、PC-98は携わっていたわけですね。

おわりに(思ったこととか)

いかがだったでしょうか。

訪問して個人的に一番印象に残ったのは、どんな成功者にも浮き沈みがあるということ。

トヨタの創業者というと、なんとなく成功を重ねて上り詰めたイメージがありましたが、実際のところは、佐吉も喜一郎も、何度も挫折を経験していました。

会社を追われたり、工場が失敗したり、戦争で事業が停滞したり……。

でも、そんな中でも情熱を絶やさず、再度上昇するまで努力を続けたわけです。

「成功するまで諦めない」というのは簡単に言えますが、実際にどん底から這い上がり続けるのは、並大抵のことではありません。

佐吉が43歳で会社を追われたとき、普通ならもう諦めてもおかしくない年齢なわけです。

でも、そこから再起して、57歳でG型自動織機を完成させた。

その不屈の精神に、訪れる前は想像もしていなかった感動がありました。

ちなみに、トヨタ産業技術記念館では、実際に動く機械の実演も見ることができます。

100年以上前の織機が今でも動く様子を見ると、当時の技術の高さなども垣間見ることができ、こちらもまた心動かされます。

この記事で興味を持たれた方は、名古屋を訪れる機会があればぜひ立ち寄ってみていただければと。

それではー。

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